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チベットショップ奮闘記

自由ヶ丘でチベットに関するグッズを売るお店マニマニを経営する店長とスタッフ達の奮闘記。 日々の出来事、お店の最新情報、旅のエピソード、 チベット周辺に関わる情報交換などなど

ミヤンマー’94 -ちょっと余談-

そして話は94年のミヤンマーに戻るのだが、
それはバガンでのこと。

ここは広大なエリアに仏教遺跡が無数に点在する。
形や大きさも様々で、中にはピラミッド状に建築されていて
登ってゆくことができるものもある。


ぶらぶら散策していた私は、地元の大学生3人連れと出会う。
「どこから来たの?」 
「どのくらい旅してるの?」

当たり障りのない会話だったが、
彼らはどことなく知的で感じがいい。 

だんだん打ち解けてくると、
私を仏塔の頂上に案内してくれるという。
美しい夕日が見れるのだと。

果たして頂上からの眺めは本当に素晴らしかった。
さっきまで立ち話をしていた地上が遥か下に。
手すりもない急な石段をこんなに登ってきたのだ。
そして見渡す限りの赤い土とストゥーパ。
その景色はどこか現実離れしていた。。。。

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私たちは石段から足を投げ出す格好で
並んで座った。 
足下には地上までの長い空間があるだけ。

「きれいだね~、真っ赤だよ~」

「太陽があんなに大きい」

口々にそんなことを言い合った後、突然耳に入った言葉。

「僕のおじいさんは日本兵に殺されたんだ」

「・・・・・・・!?」


唐突すぎて面食らった。
なんで突然そんなことを言い出したのか。

次の瞬間あっ、と心の中で叫んでしまったが
それは声にはならなかった。
恐怖に体がこわばった。

<なんでこのタイミングで言うのよ、崖っぷちに座ってるときに!>

私は彼の意図をつかみきれず、
でも何か反応を見せなくては、と動揺してしまった。

最初から私に殺意をもって(おじいさんの恨みをはらすべく)
この場所へ誘ったのか?
背中を一突きされればおしまいだ。
心臓は早鐘を打ちはじめる。

「 ソーリー。。。 」 

まずはお悔やみをと思って口からでたのだが、
彼はそのニュアンスをつかみきれずにこういった。

「君が謝ることはないよ、個人的に誰を恨む問題でもないんだ」

すると別の一人が口を開く。

「でも、戦争の歴史を日本の若者にも知っていてもらいたいんだ」

その時何故か私の頭に、「ビルマの竪琴」の水島の顔がよぎったのだ。
<知ってるよ。 映画で見たよ! >

でも映画を見たあの時、ビルマ人の苦しみにまでは
思いが至らなかったのは事実だった。
激しい戦時下でこの国は焦土と化したのだ。

私は返す言葉もなくなり、下を向いてしまった。
浮かれ気分で旅してることや、
自分の不勉強が恥ずかしかった。

学生さん



彼らはその後あっさりと立ち上がり、
暗くなると危ないから、といって
私を促して岐路についた。 

別れ際には握手をして、笑顔で路地を曲がっていった。

    **************

先日ラジオを聴いていたら、
渋谷の映画館でのエピソードにこんな話が。

「硫黄島からの手紙」には思いのほか若者が
たくさん観にきていた。
普段はセンター街でたむろしているような
見るからに今時のカップル。
彼女の方はコートもブーツも、
髪の毛までピンクだったそう。

そして劇場から出てきたそのカップルの会話。

  
彼女:(涙で声を詰まらせながら)
   「戦争って・・・・・・マジやべえ」

彼氏:「おめぇ、ただやべえんじゃねーよ。げろやべぇよ」

    ************

彼らにもクリント・イーストウッド監督のメッセージは届いたらしい。

世界に平和あれ。

子供達と

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ミヤンマー’94 - ちょっと余談 -

ミヤンマー94(ちょっと余談・・・)

正直いってミヤンマーより、ビルマと呼ぶ方がしっくりする。

子供の頃に家族で見に行った映画「ビルマの竪琴」が
忘れられないのも理由のひとつ。

ビルマで終戦を迎えた日本兵水島が、
同胞達の亡骸を弔い供養するために僧侶となって
ビルマに残ることを決心する物語だ。

ビルマの竪琴



中井貴一さんが演じたものは1985年に公開されて、
当時テレビでは散々CMが流れていた。
僧侶となった水島が肩にオウムを乗せて
戦友たちの前に現れる有名なシーン。

「おーい水島、一緒にニッポンへ帰ろう」

涙を誘う名場面だが、このセリフが大ブレイクし、
流行語となったのである。
CMを見た子供達はだれかれかまわず路上で
「オーイ、ミズシマー」と叫んだものだ。

 *************

私の家では翌年の正月に珍しく父が
「みんなで映画でも見に行くか」と言い出した。
何年ぶりだろう、家族で映画・・・・

正月映画といえば寅さんだ。
これは全員一致の意見となり、
車は映画館へと向かうのだが・・・

うちの両親の悪いくせだが、
計画を立てて行動することが苦手で
何事も行き当たりばったりが多い。

その日も、前調べもなしに
ただ最寄の映画館に向かった。
お正月なんだし、映画館行けば寅さんやってるだろう
と軽く考えてたのだが、思惑外れて寅さんはやってなかった。

寅さん



行った劇場と寅さんの配給会社が違ったのだろう。
私たちはガビ~ンとなったが、
切り替わりの早い父は、
「じゃあビルマの竪琴観ようか、いい映画だぞ」
ころっと気持ちを変えられる。

寅さんに比べるとずい分重そうな映画だが、
他に意見も出ず結局観ることに。

   ******

観終わって劇場から出てきた私たちは
みんな打ちひしがれていた。
顔は涙でぐちゃぐちゃで、
お互いの顔は恥ずかしくて見られない。
そして、「ハァ~・・・」とため息の連続。

戦争のむごさ、戦地で死んでいった兵士の哀れ、
水島の真情などに感情がぐちゃぐちゃにかき回されて
しばらくは口も利けなくなっていた。

いつもならこのあたりで
「腹減った、メシ食いに行こう」と言い出す父も
「戦争はいやだな~、絶対ダメだ・・」とそればかり。
 

そして映画の余韻は帰りの車中でも延々と続く。
母が急に唄いだした。
それは映画の中で兵士達が合唱する歌で、

「はーにゅーの宿もわーがーやーどー・・・」

とか、

「菜のはーなばたけーにいーりーひうすれー・・・」や、

「箱根の山は天下のけん・・・」

などだ。

児童唱歌というのだろうか。
みんなで、特に両親は大きな声で唄った。
涙の干からびた頬に全開の窓からあたる風が
気持ちよかったのを覚えてる。

寅さんで初笑いのはずが、
まったく方向を変えてしまった脳天気な一家である。

続く・・・

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ミヤンマー’94/インレー湖

インレー湖はどうしても行きたかった場所だった。
浅い湖の上に家を建てて暮らす人々の話を以前聞いていたから。

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水辺に暮らすというのは古来人間の潜在的な夢ではないだろうか。
実際に住んでみればあれこれと不便、不都合もあるだろうが、
水が暴れない限り、やはりそれは贅沢なことだと思う。


果たして念願のインレー湖を訪れてみると、
やはり水辺の暮らしの優雅さに感じ入る。
全てがゆったりとして趣があった。

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小舟が家の軒先を行き交い、ちょっとした買い物は
物売りの舟を玄関先で呼び止めればいいなんて情緒がある。 

情緒といえば、このあたりでは軒先に鉢植えの
植物を提げている家をよく見かける。
質素な暮らし向きだが花鳥を愛でる心のゆとりがあるということ。
そんなことにも深く感銘を受ける。

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インレー湖では週に一度市が立つ。
どこの国でも、市場というのは活気があって、
市民生活の一端をのぞける格好の場所。
ぶらぶらと眺めて周るだけで心が弾む。

<わ~~~~、いるいる、カラフルな人たちが>

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まるで色彩の洪水だ!
おっと、水辺の民族に洪水とは忌み嫌われる比喩か・・・

この周辺にはインダー族をはじめ200以上の
少数民族が住んでいるという。
市で物を売るのはほとんどが女性で、
みんなたくましく家計を支えているのだ。

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ミヤンマーの有名な産物に葉巻がある。
バーミーズシガー。 
そう呼ぶと格調高いのだが、市場で
筵の上に並べられているのは
なんだか庶民的な代物だ。

葉巻売りのおばさんも自らくわえシガーで
商いをしている。
あごがはずれそうなゴン太サイズを
ハスにくわえてかっこいいことこの上ない。

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私も試しに買ってみることに。
お土産にしてもいいと思って
ミサイルみたいにでっかいのを一束購入。
(ミサイル見たわけじゃないけど・・・)

その場で一服つけてみたが、とてもとても。
買ってから後悔した。
<これ誰にあげよう。。。。。>

よく観察してみると葉巻の太さと
吸ってる人の年齢には一定の法則がある。
つまり若い人ほど細いものを、年齢が上がるにつれて
太い葉巻を吸っている。

地元の女性に聞いてみたが、特に理由はないそう。
吸い続けるうちに肺が強化されてゆくのだろう。
それに他人の目もある。

「どこそこのお嫁さんすんごいの吸ってるわね~、お姑さん差し置いて」

みたいに噂されるのは体裁が悪いのか?

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それにしても、この市場を訪れて嬉しかったのは
人々が花を買う姿を目にしたこと。
矢車草の一種だと思う。私の大好きな花だ。

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暮らし向きは決して豊かではないが、
仏に供える花を買うことを欠かさない。

我が身に振り返って考えると、正直自信がない。
どうせならあとで自分の口に入る
果物でも買って供えた方が・・・・
なんて計算が働くに違いないのだ、私の場合。
<あ~~~、貧しい・・・>

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1300メートルの高地の湖は
打ち寄せる波濤や、暴れ狂う水の恐怖はない。
だが、細々と漁業に頼る暮らしはじつに心もとなく、
-明日をも知れぬ-という言葉はそれほど大げさではないのだ。

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だが、この市でみた女性達のある種の開き直りと
そこから生まれるしぶとさみたいなものに
日本からやってきた私は鼓舞されてしまった。

アジアの女性であることに誇りを持とうと。。。

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おわり






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ミヤンマー’94

最近知り合い数人がミヤンマーを旅行した。
その中の最高齢は御歳90歳の男性である。
足腰が丈夫で健啖家。そしてとてもお洒落な方である。

それにしてもすごいな~。
自分が90歳まで生きられるかも自信がないが、
元気に旅行して周るなんてとてもとても・・・

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私は自分がミヤンマーを旅行した時のことに
思いを巡らせて、久しぶりにアルバムを開いてみた。

94年2月末のこととなっている。
ビザは最長2週間まで。
到着と共に空港で強制両替をさせられる。

US$200を現地通貨チャットに交換。
使い切れなくても再両替はなし。
(強制両替制度は2007年現在は廃止されている)

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私は2週間まるまる滞在する予定でバンコクから
ヤンゴンへ飛んだのだが・・・・

安いチケットだったので、同じ便には
バックパッカーが多かった。
軍事政府の国を訪れる緊張が少なからずあって、
機内でも情報交換が盛ん。

空港から市内への移動も一塊になってたのを覚えてる。
みんなおっかなびっくりだった・・・

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ミヤンマーでは食事に困ったのが印象深い。
白飯に汁っぽいカレーをかけて食べるスタイルが多いのだが、
カレーとオイルの分量が半々くらいで私にはきつかった。

どこへ行っても地元食で生活できるのが
自慢だったのだが、その時はあっけなく白旗を揚げる。
そして滞在した2週間のほとんど毎食をアボカドで済ませた。
ぱっくり二つに割って、レモン汁を絞る。
(ホント救われた~)

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現地での移動はもっぱらミニバス。
定員オーバーの上、屋根にまで客を乗せる。
かくいう私も車内のギューギュー詰めを避けて
屋根の上で6時間揺られたこともあったが、
乾燥して、じりじりするような陽に肌を焼かれて脱水状態に。 
パガンの仏教遺跡群はまるで砂漠の様に乾いていた。

続く

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